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除虫菊伝来とライオンケミカルの歴史 -前編-

早いものでもう10月。秋が近づき、ようやく蚊などのイヤな虫との遭遇も減ってきましたが、ライオンケミカルの本社がある和歌山県有田市では100年以上前のこの時期に虫対策のための種まきが行われていました。

かとり線香の原料になる花『除虫菊』の種まきです。
今回から、除虫菊・かとり線香とライオンケミカルの結びつきの経緯を前後編で紹介します。

除虫菊伝来の歴史

除虫菊はキク科の多年草で、和名は『シロバナムシヨケギク』といいます。
1694年、セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)のアドリア海に面したダルマチア地方で発見され、1800年頃から除虫菊の花及び茎、葉の粉末に含まれる成分『ピレトリン』に殺虫効果があると各国に伝わり、栽培・輸出が行われるようになったそうです。

日本に除虫菊の粉が紹介されたのは、明治14(1881)年ごろと言われています。
のみとり粉としてイギリスから輸入されたのを皮切りに、「日本の菊と除虫菊は似ているので栽培が可能では?」と、オーストリアやカリフォルニアから種子が贈られてきました。
しかし、国内数か所で栽培が開始されたものの、途中で枯れてしまうなど、農産物となるほどの収穫量がなかなかとれませんでした。

そんな中、除虫菊の商業的栽培に成功した人たちがついに現れました。
それが、現在の和歌山県有田市の人々でした。

有田の合理的な除虫菊栽培

和歌山県有田市は江戸時代から高級品とされた『有田みかん』の産地。
新しいものに取り組む好奇心旺盛な人物が多かったことと、裕福なみかん農家が多かったことから除虫菊栽培にチャレンジする人々が続出したそうです。
当初は除虫菊をみかんの木と木の間に植えて、みかんと同時進行で栽培を始めましたが、何度も研究栽培を続ける中で、合理的な米との二毛作栽培が確立。
秋に除虫菊の種をまき、翌春に花を収穫。それが終わると米の稲を植え、秋に収穫するという生産の流れが定着していきました。
収穫した除虫菊は製粉し、のみとり粉として商品化。
徐々に全国へ普及していくとともに、除虫菊農場や関連会社が20社近く設立され、有田市は国内における除虫菊(かとり線香)発祥の地として広く認知されていったのです。

除虫菊栽培からこの後のかとり線香の誕生までには実に多くの功労者がおり、その中にはライオンケミカル誕生のキーパーソンも大勢含まれていました。
代表的な人物を紹介しましょう。

●上山彦松氏

明治18(1885)年に創業したライオンケミカルの起点となる『山彦製粉工場』。その創立者の息子が上山彦松氏です。
元々は農家でしたが有田に除虫菊栽培が広がり始めるのを見て興味を持ち、いち早く栽培に着手しました。
水車を建設して製粉作業の効率化をはかるなど様々なアイディアを具現化し、大正7(1918)年に同地区で除虫菊栽培をしていた上山甚太郎氏と提携。『山彦除虫菊株式会社』を設立しました。


『山彦除虫菊株式会社』

●御前七郎右衛門氏

明治18(1885)年から除虫菊栽培を始め、4年後に収穫に成功。
その苗を希望者に分け与え、有田市内に多数の除虫菊畑ができるきっかけを作った人物の1人で、政治家としても和歌山の活性化に貢献しました。
水力発電の会社を立ち上げたのち、大正8(1919)年に多数の販売ルートをもっていた小高保吉氏とともに『大正除虫菊株式会社』を設立しました。


『大正除虫菊株式会社』

この2人が立ち上げた『山彦除虫菊株式会社』『大正除虫菊株式会社』が、昭和14(1939)年に合併。のちのライオンケミカル株式会社である『大同除虫菊株式会社』がついに設立したのです。

さて、今回はここまで。
次回はかとり線香の誕生から大量生産への道のりをご紹介します。お楽しみに!

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